2009年06月25日

ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日

ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが、スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みているニュースがヒトラーのもとに届く。彼はヒムラーの官職の一切を剥奪する。 一方、開戦前からのヒトラーの盟友、(イタリア降伏後はドイツの傀儡状態となっていた)ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラレッタ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。

盟友ムッソリーニが無残にも処刑され、長年共にいた側近の多くが降伏もしくは国内外に逃亡し、追い詰められたヒトラーは、自分の死体を見世物にされたり、宿敵スターリンの手に渡ることを恐れ、4月30日15時30分頃、ベルリンの地下壕内で、前日結婚したエヴァ・ブラウンと共にピストル自殺(毒薬を飲んでとの説もある)。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。

連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見された。ユダヤ人絶滅計画をはじめ、ナチスの恐怖政治、ホロコーストの実行過程が明るみに出された。

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5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。そのときベルリンの女性の多くがソ連兵に強姦された。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後、その多くは自殺だった(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著白水杜)。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、ユーゴスラビア、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという 。

5月7日、ドイツのほとんどが連合軍に占領され、もはやドイツ軍の兵力も指揮系統も破綻し、ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥がソ連を除く連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハウアーの司令部に赴き、デーニッツ政府代表として降伏文書に署名した。翌5月8日にはソ連に対しても無条件降伏し、同日ベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst) の工兵学校におけるソ連軍に対する降伏式で陸軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥、海軍代表ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク提督、空軍代表ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ (Hans-Jürgen Stumpff)上級大将 による降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日から始まった、ヨーロッパでの戦争は終結した。

2009年06月10日

アメリカは事前に察知していたとの主張

「アメリカは真珠湾攻撃を事前に察知していた」という噂は既に戦時中からあった。主張によれば、アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知したのだが、暗号を解読している事実を日本に知らせないためには、事前に真珠湾に警戒態勢をとらせることはできなかったのだという。

さらには、そのまま攻撃させたほうが政治的に有利であるため、あえて見過ごしたのだとする主張もある。こうした陰謀論でよく語られる「根拠」として、当時日本の外交暗号はほぼ解読されていたこと、民主党のルーズベルトが対独開戦を指向していたにもかかわらず共和党を中心とした反戦世論により妨げられていたが、真珠湾攻撃を受けたことにより実現したことなどがある。

否定説
現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することにあり、アメリカ軍は日本軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは考えていなかった。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。
また、真珠湾攻撃は海軍により徹底的に秘匿が図られ、日本の外務省すら内容を知らされておらず、解読済みの外務省暗号では開戦日時や攻撃場所はそれを察知できなかった。しかも真珠湾攻撃に向かう艦船はすべて厳密な無電封止(無線通信の禁止)を行っており、モールス打鍵器にロックが掛けられていたとの証言もある。更に呉・柱島泊地からは機動艦隊発に見せかけた偽のモールス信号が大量に発信されていたため[10]、11月25日時点でアメリカ海軍情報部は、艦隊は呉?鹿児島南部のあたりにいると予想していた[11]。
さらに、仮に無線を傍受していたとしても、作戦概要は本土から空母「赤城」の金庫に保管されており、出撃命令も1941年11月20日に軍令部第一部長、福留繁少将から手交によって行われているので[12]、無線の内容で攻撃目標が真珠湾である事や、作戦概要を知る事は不可能であった。
肯定説
当時のアメリカ国務長官ハルの回顧には、1941年1月27日に東京のグルー大使から、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」という情報を受けたため、陸、海両省に報告したという記述がある[13]。グルー自身も信憑性が高い情報とは思っていなかったようだが、米政府が、事前に、真珠湾攻撃の可能性ありという報告を駐日大使から受けていたのは事実である[14]。グルー自身は、1941年1月27日の日記において「対米開戦時には、日本は真珠湾に集中的に奇襲攻撃をかけるという計画が進行中であると噂になっていたので、政府に報告した」[15]と記述している。
情報の自由法により公開された米軍機密資料および公文書館資料を活用して詳細な調査を行ったロバート・スティネットは次のような主張をしている[16]。
FBIの記録によると、「五数字暗号」とアメリカ側で呼ばれていた日本海軍暗号について、1940年10月には解読に成功していた。これは暗号解読方法説明資料「RIP73」、「RIP80」としてまとめられた。(但し、添付資料の傍受日付は1941年11月18日だが、解読日付は戦後の1946年4月26日である事が、左近允尚敏により指摘されており[17]、解読が成功したかについては疑問がある。)
「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった。(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある。)
国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた。(国立第二公文書館資料)
シアトルの諜報無線局SAILが東京-ワシントン間の無線通信を集中的に傍受したところ、ほとんどがパープル暗号を用いたものであり、ワシントンの陸海軍暗号解読班により、数時間で解読翻訳されていた。
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フィリピンのCASTの暗号分析班は、1941年11月30日に日本軍が実施した呼出符号変更を解析して、ハワイに向かう日本機動部隊のほとんどの艦船を特定していた。(ハワイに向う指令は、無線では行われておらず、呼出符号変更の解析でハワイに向かう日本機動部隊の艦船の特定は不可能である事が、秦郁彦らに指摘されている[18]。)
無線方位測定機による日本機動部隊に関する位置情報は、すべて大統領にも提供されていた。(国立第二公文書館資料)(軍令部が船橋から発信した「A情報」を、機動部隊発信の無線と誤認した可能性を、今野勉により指摘されている[19]。)
サンフランシスコ第12海軍区は1941年11月30日から12月3日の間、日本の艦隊がハワイ北方海域を北緯43度から38度まで航行するのを補足していた。(コールサインから、商船「竜田丸」の交信を誤認した可能性を今野勉により指摘されている[20]。)
真珠湾攻撃前に日本機動部隊は無線封鎖を実施したとアメリカ側日本側ともに主張するが、アメリカ軍の傍受記録からは、日本機動部隊が無線封鎖を無視して頻繁に通信していたことを立証できる。(その時期、日本海軍は大規模な偽電工作を行っており、それに引っ掛かった可能性を、秦郁彦らに指摘されている[21]。)
(マッカラム覚書の)アーサー・マッカラム少佐は、「ハワイで傍受された報告は断片的であった」と主張しているが、ハワイの無線通信解析主任は、当時「毎日1000通以上の日本海軍無線を傍受しており、我々の報告は断片的ではなかった」と反論している。(上記同様に、偽電工作による偽電文を傍受した可能性が高い[22]。)
海軍作戦部次長ロイヤル・インガソル少将の決定により、ハワイのキンメル提督は、解読電報の報告先から除外されていた。
1979年のカーター政権下で公開された傍受電報に関する文章は全体のごく一部に過ぎず、国家安全保障局により、出所がすべて伏せられている。
国家安全保障局が情報開示を拒んできたことについて、その職員は「それは公共の利益のためである。この問題は公に討論すべきことではない。政府の立場を弁明すること自体が、政府が守らねばならない秘密の一部となっている場合、政府の立場を明らかにすることはできない」と語った。
日本無線傍受電報の原本記録はすべて機密暗号グループに分類され、現在でもほとんど公開されていない。

2009年06月06日

木造枠組壁構法

木造枠組壁構法(もくぞうわくぐみかべこうほう)とは、建築構造の木構造の構法の一つである。欧米では標準的な木造住宅の構法であるが、日本でも1974年頃から建築されるようになった。

木造枠組壁構法は、耐力壁と剛床を強固に一体化した箱型構造である。木造軸組構法が、柱や梁といった軸組(線材)で支えるのに対し、木造枠組壁構法では、フレーム状に組まれた木材に構造用合板を打ち付けた壁や床(面材)で支える。それゆえ、高い耐震性・耐火性・断熱性・気密性・防音性をもつ。

米国の2×4工法(ツーバイフォーこうほう、two-by-four method)を日本で定義した名称である。1973年に制定された。「木造枠組壁構法」は『学術用語集 建築学編』に定められた名称である。工法としては、枠組壁工法(わくぐみかべこうほう)とも呼ばれる。一般には日本でも英語名によって広く2×4工法(ツーバイフォーこうほう)と呼び慣らわされることが多いが、まったく同じものを指すものではない。日米の対比の際には、米国の2×4工法はウッドフレーム工法(wood frame construction method)として、(米国の2×4工法に基礎を置く)日本の2×4工法である木造枠組壁構法と比較される。

2×4工法の名称は、下枠・縦枠・上枠などの主要な部分が、2インチ×4インチサイズをはじめとする規格品の構造用製材(ディメンションランバー)で構成されることから名付けられた。一方、2×6工法は、主要な部分に2インチ×6インチサイズの構造用製材を使うものを指す。

使用する木材は、主に、寸法形式204(38mm×89mm)・206(38mm×140mm)・208(38mm×184mm)・210(38mm×235mm)・212(38mm×286mm)・404(89mm×89mm)の6種類と構造用合板だけであり、規格化された木材は、工場での大量生産により手間やコストを抑えることができる。
継手・仕口などの複雑な加工が不要であり、ほとんどが直線カットのみで済むため、高度な技術を必要とせず、人件費および工期を抑えることができる。
使用する釘は、主に、2×4用太め鉄丸くぎ(CN釘)のCN50(緑)・CN65(黄)・CN75(青)・CN90(赤)の4種類だけであり、色もついていることから、釘の誤使用が起こりにくく、打ち込み済みの釘の検査もすることができる。なお、広く普及している鉄丸くぎ(N釘)などの使用は認められていない。なお、石膏ボードの打ち付けには、石こうボード用くぎを用いる。
構造用合板を直接打ち付けた耐力壁および剛床で建物を強固に一体化しているため、耐震性・耐風圧性に優れている。特に耐震性については、兵庫県南部地震および新潟中越地震などで、建物の新旧を問わず、ほとんどの建物で大きな被害を生じなかったことからも証明されている。これに対し、木造軸組構法の建築物は、倒壊したものや、大きな被害を生じたものが多かった。
壁や床といった面要素を基本としていることから、隙間が大変少なく、断熱性・気密性・防音性に優れている。特に気密性については、断熱材と防湿気密シートの使用により、比較的容易に次世代省エネルギー基準に適合した建築物を作れるばかりでなく、さらに厳しい省エネ基準であるR2000に適合した建築物を作ることさえ可能である。
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各部屋は、内壁および天井に石膏ボードを打ち付けてあるため、火災に強く、隣室や上階への延焼を遅くする効果がある。また、石膏ボードを厚くしたり重ね貼りしたりすることにより、比較的容易に準耐火構造の建築物を作れるばかりでなく、耐火構造の建築物さえも作ることができる。
耐力壁線と呼ばれる耐力壁で囲まれた空間を構成していかなければならないため、間取り、部屋の大きさ、窓の位置、大きさ等、ある程度の制限を受ける。しかし、逆にこのような制約が、構造的強度を高めているとも言える。
耐力壁が構造上重要な位置を占めるため、窓や扉等の開口部を拡大したり増設したりするような大規模なリフォームはできないデメリットもある。
施工順序としては、2階建ての場合、1階床→1階壁→2階床→2階壁→屋根となる。屋根が最後となるのは、木造軸組構法と対照的である。雨の多い日本においては、施工中に床に水が溜まったりしないように、養生を重視する必要がある。なお、短時間の濡れに対しては、乾かせば問題ない。
欧米、特に北米やカナダにおいては、木造住宅の一般的工法である。
日本においては、木造軸組構法の割合が多く、この構法が普及しているとは言い難い。しかし、耐震性・耐風性・耐火性・断熱性・気密性・防音性などの良さが評価され、近年シェアを伸ばしつつある。
構造方法(枠組みを組む際の木材の間隔、構造用合板の張付方法及び釘等の金物による留付間隔等)を理解した設計者・工事監理者・施工業者による設計・工事が不可欠である。また、行政機関や民間の確認検査機関等による検査の際に、検査官の理解力が乏しい場合、見落としの可能性もあるので注意が必要である。
技術基準については建築基準法告示第56号にて、最低限の仕様規定が明記されている。

2009年04月23日

王政復古 (日本)

王政復古(おうせいふっこ)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に討幕派の計画により「天皇親政」が宣言された政変である。 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)とも呼ばれる。

江戸時代後期には、諸外国との通商条約の締結などを巡って、朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られたが、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動が存在した。

土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は公議政体論に基づき、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上し討幕の名分を失わせた。ただし、徳川家は天皇の下に一元化された政治の中枢に入り、引き続き実権を掌握する事を想定していた。

朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川家一門の徳川慶勝と松平慶永、薩摩藩の島津久光、土佐藩の山内豊信、宇和島藩の伊達宗城、広島藩の浅野長訓、肥前藩の鍋島直正、岡山藩の池田茂政(慶喜の実弟)ら諸藩に上洛を命じた。

一方、大政奉還によって討幕の大義名分が失われたうえ、朝廷は親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王(維新後久邇宮)が主催するところであったため、徳川中心の朝廷政府が成立するのを怖れた公家の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通ら討幕派は、満15歳の明治天皇を手中にして二条摂政や朝彦親王を排除し、朝廷を掌握するためのクーデター計画を進めた。

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当初は12月8日(1868年1月2日)を予定していたが、公議政体派である土佐藩の後藤象二郎から12月10日(1868年1月4日)を要請され、やむなく1日遅らせて12月9日(1868年1月3日)に決行することで決した。

前日・12月8日(1868年1月2日)夜、岩倉は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言、協力を求めた。また、二条摂政によって翌日朝にかけて行われた朝議では、毛利父子の官位復帰と入京の許可、岩倉具視ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。

2009年04月19日

BRICs・VISTAの台頭

1997年のアジア通貨危機の際に影響を受けなかった国が2国あった。それが、中華人民共和国とインドである。両国はともに変動相場制を採用しておらず、このことが為替による投機を回避することができた要因だった。中国とインドはアジア通貨危機以後、経済のプレゼンスを拡大していった。これに、原油価格が高騰したことにより、ボリス・エリツィン大統領の時代には国家が破綻状態に追い込まれたロシアも息を吹き返した。さらに、2003年には、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領が就任すると1970年代以来問題となっていた対外債務問題の解決に腐心したブラジルも原油価格の高騰とバイオマスエタノールを武器に息を吹き返していった。これら4カ国を総称して、BRICsと呼ぶ。

ゴールドマン・サックスのレポートによる造語のBRICsという用語は、第二次世界大戦以降、EUを核とするヨーロッパ、アメリカ・カナダの北米圏、日本という経済の三極構造を大いに覆す可能性がある国々ということで、人口に膾炙した。これら4カ国の共通する点は、1億人以上の国内市場の存在、豊富な天然資源、先進国に比べて安価で良質な労働力を確保できるといった点が挙げられる。4カ国の総人口は世界の約42パーセント、面積は約3割に達するという。
原油価格をはじめとする資源価格の高騰は、これまで開発が進んでいなかった地域での油田の開発が展開されるようになった。ペトロチャイナはアンゴラを皮切りに、アフリカの各地で油田の開発を実施しているし、ブラジルは大西洋の沖合いで海底油田の採掘に成功し、ペトロブラスは大きく成長を遂げることとなった。ロシアのガスプロムもまた、サハリン沖の油田開発で日本の総合商社(三井物産や三菱商事)の排他に成功していった。

また、中央アジアや東欧で破綻していった鉄鋼会社を次々と買収していったインドのミタルグループは、ルクセンブルクのアルセロールと合併し、アルセロール・ミタル)が誕生するなど、従来の常識では考えられない企業の発展が見受けられるようになった。インドは1991年には外貨危機を経験したものの、2003年には世界4位の外貨準備を持つ国に変貌した。

BRICsの成功は、世界の通貨の流れを劇的に変えた。上海、ムンバイといった市場に先進国の資金が流入した。また、原油価格の高騰を背景にサウジアラビアやアラブ首長国連邦などの、いわゆる「オイル・マネー」が自国のインフラストラクチャーの整備のみならず、サブプライム問題にあえぐアメリカ合衆国の金融機関に出資するという形で通貨の面からも世界の市場は一つにまとまりつつある。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ


BRICsに代わる造語として登場したのが、VISTAである。ベトナム・インドネシア・南アフリカ・トルコ・アルゼンチンのそれぞれの頭文字をつけられて造られたこれらの地域は、前述のBRICs各地域よりも廉価な労働力を持ち、インドネシアを除きBRICsよりもやや小さい国内市場を保有、また、天然資源も豊富なことから、経済的な実力をつけ始めている。南アフリカは、アパルトヘイトの廃止以降、2010年にワールドカップを開催することができるまで、経済成長を達成し、ベトナムは、中国・インドに代わる「世界の工場」になろうとしている。また、これらの地域以外でも、スエズ運河の収入や原油高の恩恵、観光収入を伸ばしているエジプト、人口1億人以上を持つパキスタンやバングラデシュといった国々も徐々にではあるが外資の導入に成功しだしてきており、経済のテイクオフが近づいてきている(NEXT11)。

非政府組織の活動
グローバリゼーションの進行、情報・通信技術の発展と、情報・通信の製品・サービスの普及、インターネットの普及、世界の諸国民の識字率や教育水準の向上などの、多種多様な要因の集積により、営利事業組織である企業、非営利組織であるNGO、NPOなどが国家の枠国を超えて、世界的な規模で活動するようになった。世界的な大企業や非政府組織の中には、世界を大きく変革する技術開発や、世界的に普及する製品・サービス・開発モデル・ビジネスモデルの創出に貢献し、小規模な国のGDPを上回る売上を持って、雇用や納税や消費の拡大に大きな影響力を行使している企業・組織も有る。非政府組織の中には、対人地雷禁止条約、クラスター爆弾禁止条約などの軍縮条約の採択、紛争地域・災害地域・貧困地域で、医療・保健、学校教育、水道などのサービスの提供、前記の分野のインフラの建設を支援する活動により、貧困や紛争とその被害を解消し、被援助地域・人々の自立的・自発的な発展に成果を上げている組織も有る。経済的に豊かな国や先進国においても企業やNGOやNPOなどの非政府組織は、市民の生活や社会の運営に必要な存在として、政府と協力し、役割分担して活動している。企業やNGOやNPOなどの非政府組織の活動と影響は今後も増大すると推測されている。

2009年04月04日

物言い

物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、勝負審判や控え力士が異議を唱えること。

対戦(取り組み)後の行司軍配に異議のある(ほとんどは、両者の体勢が微妙な状態での決着など)場合、勝負審判は、即座に手を挙げることによって意思表示をする。その後5人の勝負審判が土俵上で協議を行う。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が発表される。

多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割るのが同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違え(もしくは行司軍配差し違え)という。

また、土俵下の控え力士も物言いをつけることができる(2008年9月21日に序二段笹山?桑原戦に控えの星ヶ嶺が、また、1996年1月場所9日目に大関貴ノ浪(現音羽山)が物言いを付けたことがある=エピソードの項参照)が、協議に参加することは出来ない。審判委員は控え力士から物言いが出た場合には必ず協議を行わなければならない。なお、行司は取組の状況を述べる以外は協議に参加できない。

アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、(大会にもよるが)ビデオ判定は用いられないことなどをのぞいて、形態は大相撲とほぼ同じである。

ビデオ判定 [編集]
大相撲にビデオ判定が導入されるきっかけとなったのは、1969年3月10日の3月場所2日目、横綱大鵬と前頭筆頭戸田(現雷)の一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追ううちに戸田の右足が俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。22代式守伊之助の軍配は大鵬にあがったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が土俵を割るのが先という結論(審判長の春日野(元横綱栃錦)以外の4人が戸田の勝ちを支持)になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。しかし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。大鵬がここまで45連勝していたこともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。

これを受けて、日本相撲協会は目視による判定を補う方法について検討し、次の5月場所よりビデオ判定を導入することになった。

問題点として、実際にビデオ室で再生映像を確認する者と、協議を行う審判員が別であるため、どちらが先に土がついたかだけが重視され、相撲の流れや生き体、死に体の区別などがないがしろにされがちなことがあげられる。また、明らかな誤審であっても物言いがつかなければ、ビデオが参考にされることはなく、ビデオ室係が行司の軍配に疑問を持っても、物言いをつける権限はない。

また、勝負審判の判定が物議を醸した例としては、

1986年5月場所での北尾?小錦戦での物言い取り直し後に、北尾光司の鯖折りで小錦が負傷した、所謂鯖折り問題。
1993年5月場所千秋楽での大関小錦の方が明らかに先に落ちているのにも拘らず、小錦の投げ有利で関脇若ノ花(のち横綱3代若乃花)の死に体と見て若ノ花の負けにされ、物言いがつかなかった一番。
2004年7月場所中日の横綱朝青龍?前頭2枚目琴ノ若(現佐渡ヶ嶽)戦の所謂死に体問題。
更には貴乃花を引退させたくない協会の思惑がにじみ出たといわれる2003年1月場所2日目の横綱貴乃花?前頭筆頭雅山戦の同体判定問題。
等の事例が存在する。

エピソード [編集]

近代相撲以前 [編集]
講談などでは、寛政時代雷電と小野川の取組で、雷電の寄りを土俵際こらえた小野川が必死に残すも軍配は雷電、しかし小野川を抱える久留米藩の藩士が小野川がうっちゃったであろうと刀に手をかけ、土俵に駆け上って物言い、行司はいさいかまわず凛然と「雷電ン?!」と勝ち名乗りをあげ、観客の喝采を得る――という話がある。
これ自体はまったくの創作だが、こうした強引な物言いは当時決して少なくなく、江戸の庶民も腹に据えかねていたことが判る。
1789年(寛政元年)11月場所6日目、角界史上初の横綱(番付上は大関)披露を翌日に控えた関脇小野川は前頭2枚目関ノ戸と対戦。小野川がちょっとしたはずみで左膝をつき、関ノ戸の勝ちとなるところを強引な物言いがついて勝負預りとなった。関ノ戸にとっては不運であったが、小野川の横綱披露に差し障りがあるため、無理難題な物言いだったと思われる。

リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

2009年03月20日

 東京駅?熊本駅間運転の31・32列車

1948年(昭和23年)12月 東京駅?鹿児島駅間運転の急行1・2列車に「特別寝台車」(翌年5月、「一等寝台車」となる)を連結。寝台車が復活した。
1949年(昭和24年)9月 このときのダイヤ改正で、1・2列車に食堂車を連結。食堂車も復活。
1950年(昭和25年)11月 この年10月実施のダイヤ改正に続いて、この時それまで特急列車に限られていた列車愛称が、以下の急行列車にも付けられることになる。
「阿蘇」 東京駅?熊本駅間運転の31・32列車
「きりしま」 東京駅?鹿児島駅間運転の33・34列車(10月の時刻改正で、1・2列車から列車番号変更)
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

「雲仙」 東京駅?長崎駅間運転の35・36列車
「筑紫」 東京駅?博多駅間運転の37・38列車
「安芸」 東京駅?広島駅間運転の39・40列車
大阪駅?広島駅間に準急307・308列車新設。
1951年(昭和26年)4月 大阪駅?博多駅間に、臨時急行3033・3034列車を運行開始。関西から九州へ向かう夜行急行列車が誕生した。
1951年(昭和26年)11月 それまで京都駅?博多駅・都城駅間にて設定されていた準急205・206列車から分離して、「阿蘇」に東京駅?門司駅間にて併結する形で、東京駅?都城駅間に急行「たかちほ」を設定。
1952年(昭和27年)4月 連合軍専用列車として運行されていた列車が日本人にも一部開放され、それらの列車は「特殊列車」と呼ばれた。
1952年(昭和27年)9月 臨時急行3033・3034列車は定期急行に格上げられ、「げんかい」と命名された。
1953年(昭和28年)3月 京都駅?博多駅間に特急「かもめ」を運行開始。1944年に「富士」が廃止された後、9年ぶりに山陽本線に特急列車が復活した。「げんかい」は、東京駅?博多駅間運行となる。
1954年(昭和29年)10月 「特殊列車」が普通の不定期急行列車に転換され、そのうち東京駅?佐世保駅間を運転していたものに「西海」、東京駅?博多駅間を運行していたものに「早鞆」と命名。「筑紫」は鹿児島駅までの運転となり、夜に出発して翌々日朝に目的地に到着するという夜行二泊の列車となった。
1955年(昭和30年)7月 「げんかい」は、漢字書きの「玄海」となる。また同月、一等寝台車が利用率の悪かったことから廃止され、それまでの一等寝台は二等寝台A・B室、それまでの二等寝台は二等寝台C室となる。
1955年(昭和30年)10月 中国地方から九州への便を図るべく、広島駅?門司駅間に臨時準急3207・3208列車を設定。
1956年(昭和31年)11月 このダイヤ改正では、まず東京駅?博多駅間に、特急「あさかぜ」を運行開始。優等列車では初めて関西圏を深夜通過し、また関東?山陽・九州間を結ぶ特急としては前述した「富士」以来12年ぶりの復活であった。東京駅?博多駅間の所要時間は17時間25分で、戦前「富士」20時間3分の水準を、この時東海道本線の全線電化が完成したこともあって大幅に引き離した。なお、当時の急行列車は同区間に21?25時間を要した。
他には、
「玄海」は「あさかぜ」に輸送を譲り、京都駅?長崎駅間に運転区間を変更。
同年3月から京都駅?熊本駅間に運行されていた臨時列車を定期急行「天草」に格上げ。
「西海」が定期列車になる。
この時定期化された「早鞆」が「筑紫」に改称され、それまでの「筑紫」は「さつま」となる。
「きりしま」は、漢字書きの「霧島」となる。
「たかちほ」は、漢字書きの「高千穂」と改められて西鹿児島駅(現、鹿児島中央駅)まで区間延長、日本最長距離運転の急行列車となる。
3207・3208列車が定期405・406列車となって長崎駅行きとなる。
京都駅?広島駅間(呉線経由)に準急305・306列車が新設される。
と言った動きがあった。
このダイヤ改正時の優等列車の様子は下記の通りである。またこの年7月に経済企画庁(現、経済産業省・内閣府)は経済白書で「もはや戦後ではない」と説き、日本は戦後復興から高度経済成長の時代へ突入していく事になった。
特急列車 2往復
「かもめ」 京都駅?博多駅。昼行特急。
「あさかぜ」 東京駅?博多駅。夜行列車で、関西圏を深夜通過する時刻設定であった。
急行列車 10往復
昼行列車
「筑紫」 東京駅?博多駅
「安芸」 東京駅?広島駅(呉線経由)
「さつま」 東京駅?鹿児島駅
夜行列車
「阿蘇」 東京駅?熊本駅(筑豊本線経由)
「西海」 東京駅?佐世保駅
「高千穂」 東京駅?西鹿児島駅(日豊本線経由)
「霧島」 東京駅?鹿児島駅
「雲仙」 東京駅?長崎駅
「天草」 京都駅?熊本駅
「玄海」 京都駅?長崎駅(大村線経由)
準急列車 3往復
305・306列車 京都駅?広島駅。昼行。
307・308列車 大阪駅?広島駅。夜行。
405・406列車 広島駅?長崎駅(大村線経由)。昼行。

2009年03月05日

阿修羅

阿修羅(あしゅら、あすら、Skt:asuraの音写、意訳:非天)は八部衆に属する仏教の守護神。修羅(しゅら)とも言う。大乗仏教時代に、その闘争的な性格から五趣の人と畜生の間に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となった。

古代ペルシャの聖典『アヴェスター』に出る最高神アフラ・マズダーに対応するといわれる(以下、歴史的背景の項を参照)。それが古代インドの魔神アスラとなり、のちに仏教に取り入れられた。古くインドでは生命生気の善神であった。天の隣国だが天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて忉利天にも住めないといわれる。

本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語となり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。帝釈天とよく戦闘した神である。リグ・ヴェーダでは最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。

仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。

興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。

姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い。

奈良県・興福寺の八部衆像・阿修羅像(国宝)や、京都府・三十三間堂の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が有名。

日本語では、争いの耐えない状況を修羅道に例えて修羅場(しゅらば)と呼ぶ場合もある。激しい闘争の行われている場所、あるいはそのような場所を連想させる状況を指す。

歴史的背景
一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている。宗教学的にも、ヴェーダ文献においてアスラの長であるとされたヴァルナとミトラは諸側面においてゾロアスター教のアフラ・マズダーとミスラに対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。

ただし、阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。 シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル。アッシリアの最高神アッシュル。ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも音写する。

シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。

アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。

バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。

また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。

戦闘神になった背景
阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されている。しかし事実は少し違うといわれる。阿修羅はもともと天部の神であった。阿修羅が天部から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。

阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。

阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。

一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。

阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義から名づけられた。

阿修羅王と住処
阿修羅王の名前や住処、業因などは経論によって差異がある。パーリ語(Pl)では、阿修羅王にRāhu、Vepacitti、Sambara、Pahārāda、Verocana、Baliの5つの名が見られる。ただし大乗仏典では、一般的に阿修羅王は4人の王とされることが多い。 『法華経』序品には、4人の王の名を挙げ、各百千の眷属を有しているとある。また『十地経』や『正法念処経』巻18?21には、これら4人の住処・業因・寿命などを説明しており、其の住処は妙高山(須弥山)の北側の海底地下8万4千由旬の間に4層地に分けて住していると説く。以下説明は主に正法念処経による。

羅喉阿修羅王(らご)
Skt及びPl:Rāhu、ラーフ、Pl:訳:障月、執月、月食など、 
その手でよく日月を執て、その光を遮るので、この名がある。
(住処) - 第1層、海底地下21000由旬を住処とする。身量広大にして須弥山のようで、光明城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世にバラモンであった時、1つの仏塔が焼き払われるのを防ぎ、その福徳により後身に大身相を願った。不殺生の実践したが、諸善業を行わなかったので、その身が破壊(はえ)し、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の500歳を1日1夜として、その寿命は5000歳
婆稚阿修羅王(ばち、婆稚とも)
Skt及びPl:Bali、バリ、訳:被縛
帝釈天と戦って破れ、縛せられたためにこの名がある。正法念処経では勇犍(ゆうごん)阿修羅王。ラーフの兄弟で、彼の子らはみなVerocaと名づく。
(住処) - 第1層の下の第2層、さらに21000由旬の月鬘(げつまん)という地で、双遊城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に他人の所有物を盗み、不正の思いをなして離欲の外道に施して、飲食(読み:おんじき)を充足させたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の600歳を1日1夜として、その寿命は6000歳
佉羅騫駄阿修羅王(きゃらけんだ)
Skt:Śambara、Pl:Sambara、サンバラ、訳:勝楽、詐譌、木綿など
正法念処経では華鬘(けまん)阿修羅王と訳される。
(住処) - 第2層の下の第3層、さらに21000由旬の修那婆(しゅなば)という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に食を破戒の病人に施して、余の衆は節会の日により相撲や射的など種々の遊戯をなし、また不浄施を行じたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の700歳を1日1夜として、その寿命は7000歳
毘摩質多羅阿修羅王(びましったら)
Skt:Vemacitra、Vimalacitra、Pl:Vepacitti、訳:浄心、絲種種、綺書、宝飾、紋身など
乾闥婆の娘を娶り、娘の舎脂を産んだ。前出のように舎脂は帝釈天に嫁いだため、帝釈天の舅にあたる。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

(住処) - 第3層の下の第4層、さらに21000由旬の不動という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横13000由旬。
(業因) - 前世に邪見の心を以って持戒する者に施して、余の衆は自身のために万樹を護ったので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
その他『起世経』では、須弥山の東西の面を去ること1000由旬の外に毘摩質多羅王の宮があり、縦横8万由旬であるといい、また修羅の中に極めて弱き者は人間山地の中に在りて住す、すなわち今、西方の山中に大きくて深い窟があり、多く非天=阿修羅の宮があるという。

2009年02月13日

巣作りドラゴン

逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

舞台は中世風の世界。ある日、エルブワード王国にある大きな山に竜が巣を作り始めた。竜は周辺の村や町に生贄や金品を要求し、逆らうものには容赦をしないため、王国は騒然となった。しかしその竜は大きな被害をもたらさなかったため、王国は無駄に刺激をすることもないと静観することにした。ところが数十年後、突如竜が村や町を攻撃、貢物を要求してきた。放置できなくなった王国はやむを得ず竜討伐令を発するのだった。

混血の竜族であるブラッドは、幼い頃から竜族最強最悪の女と呼ばれるリュミスにいじめられ、何度も重傷を負わされてきた。そこでブラッドは、大きく立派な巣を作り財宝を蓄えてから花嫁を迎えるという竜族の習慣を利用し、巣作りを口実に竜族の村を出る事にした。ところが出発の前日、行方不明になっているブラッドの許婚ライアネに代わり、リュミスが許婚になってしまう。わざと巣作りを遅らせる事で結婚を先延ばしにしようとしたブラッドだったが、業を煮やしたリュミスが勝手に周辺の村や町を攻撃、貢物を要求する。さらに期限内に立派な巣を作らねば死なすと脅され、ブラッドはやむを得ず巣作りに本腰を入れるのだった。
ゲームの(一応の)目的はリュミスが満足する巣を作る事。そのためには財宝を蓄え、巣を豪華なものにし、Hのテクニックを磨かねばならない。また、巣には財宝や竜退治が目的の人間が侵入してくるため、迎撃するモンスターを雇ったり巣に罠を設置したりすることができる。

財宝は村や町を攻撃して貢物として、侵入者を撃退して身ぐるみを剥ぐ、侵入者を捕らえて身代金として得る。巣は財宝を消費して豪華にし、Hのテクニックは捕虜で練習して磨く。

ブラッド・ライン
主人公。混血のドラゴンで、古代竜以外の現存する全ての竜族の血が流れている。混血のため上手く力が制御できず、竜族では落ちこぼれである。本人もそのことについては自覚しており、たまに自虐的なモノローグが入る。小さい頃からリュミスの暴力には散々な目に遭わされ何度も死にそうになる事(何度かのうち2回は本当に生死の境をさまっよたらしく、半年ほどベッドから出られなかったらしい。)もあったらしく、習性を利用して村を出る頃には内心ホッとしていたらしい節がある。リュミスを恐れてはいるが別に嫌いというわけではなく、逆に竜族で一番強くプライドの高いリュミスのことを憧れ目標にしたいとも思っているようである。
リュミスベルン(声:羽賀ゆい)
通称リュミス。純血の古代竜で、竜族最強の女(竜族は基本的に男より女の方が強いがリュミスはその中でも最強と言われている)。基本的に我侭であり自分の思い通りにいかない場合は実力を持って行動する。また、ブラッドの巣にいるギュンギュスカー商会のクーやメイドに平気でお小遣いと称して賄賂を渡してブラッドの巣作りを急がせるようにしている(それ以外にもクーには何か命令をしている)。ブラッドに対し傍若無人な態度をとるが実際は照れ隠しらしい。そのため、ブラッドの敵や危険なものは排除しようとしている。ブラッドの元許婚のライアネとは姉妹のように仲が良かった。またブラッドの親友のマイトは実の弟である。
ツンデレキャラとして非常に人気が高いキャラであるのだが、このことはスタッフにとって想定外であった。それどころかヒロインとすら思っていなかったため、パッケージイラストにはリュミスが描かれていない。
ユメ・サイオン(声:大波こなみ)
竜殺しの血をもつ獣人。村を守るため生贄に捧げられるが竜殺しの剣と共にブラッドに襲いかかる。しかし竜殺しの力(竜が相手の際自分の力を高め竜の力を弱める)も混血のブラッドには効果が薄く、捕らえられた。当然ながら竜殺しの力が最大限に発揮される純血ドラゴンであるリュミスとの相性は最悪。料理が得意。捕らえられた後はブラッドの巣で料理番をしている。
フェイ・ルランジェル・ヘルトン(声:渋谷ひめ)
元王国騎士を父にもつ女剣士。街がブラッドに襲われるのを見て討伐に立ち上がった。竜(ブラッド)を倒すことで騎士の称号を得ることを目標としている。高い戦闘力を持ち、初心者プレイヤーが最初にぶちあたる壁。ある行動で捕らえることができる。捕らえた後は条件をクリアすることで仲間にできる。
リ・ルクル・エルブワード(声:西田こむぎ)
エルブワード王国王女。竜のおかげで自分たちの国が生きている事を重視し、王の討伐令をなんとかやめさせたいと思っている。性格は気の強いお姫様でありツンデレ。しかし、部下に対しては横柄な態度などはとらず国を良くしようと協力している。ある時期にある行動で巣に連れてくることができる。
クー(声:春野さつき)
魔族。赤い髪の毛をツインテールにし、常に執事の服をまとっている。ブラッドの巣で働くメイド達の長であり、彼女達からは「連隊長」と呼ばれている。性格は明るく思ったことはすぐに口に出す。魔族のため魔法が得意である。料理は苦手で食材を平気で生のまま出すらしくメイドたちはかなり困っている。カラオケが好きなようでマイクを握ると離さない。
魔界のギュンギュスカー商会より派遣された販売員で、ブラッドのことを「ご主人様」と呼ぶが、正確にはメイドたちも含めブラッドの部下ではない。ギュンギュスカー商会での階級は大佐。非常に頭がよく、時にブラッドの参謀のような役割を務める。ブラッドが商品をあまり買ってくれないため営業の成績が下がったらしい。そのため、よくブラッドに商品を薦める。巣作りドラゴンには珍しい貧乳キャラである。
ドゥエルナ
竜殺しの魔術士。竜を殺すのは魔術の材料になるためである。しかし、実際は自分でもわかっていないがなぜか竜に対して強い恨みを心の中に持っていることが原因で竜を標的にする。今回たまたま近くにいるブラッドが狙われる。実はドゥエルナの過去に…。
リュベルマイト(マイト)(声:一条光)
ブラッドの親友であり、リュミスの実弟。竜族の男たちの中では最強を誇る。ブラッドと同じく巣作り中であるが、許婚はリュミスのような激しいタイプではないようで、たびたびブラッドの巣へと顔を出しに来る。シスコンであり、リュミスのことを姉以上に思っている節もある。
ライアネ
ブラッドの元許婚。古代竜の血統を受け継いでおり、リュミスの性格にしては珍しくリュミスと仲がよい。放浪癖があったらしくよく旅に出ていたようである。普通に50 - 100年間、旅に出ることもあるらしい(竜族は長寿のため特に珍しくもないらしいが)。しかし、音信不通状態が長く続いたためブラッドの許婚から外される。
現在は行方不明であるが…。


2009年01月27日

F-8 (戦闘機)

F-8とはアメリカの航空機メーカー、チャンスボート社が開発し、アメリカ海軍とアメリカ海兵隊を中心にフランス海軍とフィリピン空軍で使用されたジェット艦上戦闘機である。愛称はクルセイダー(Crusader、十字軍の戦士)。開発当初の機種名はF8Uであるが、1962年の機種名整理で命名規則が変更されたため、F-8となった。

開発は1952年にアメリカ海軍が超音速制空戦闘機を要求したことから始まった。この要求に応じたチャンスボート社は数々の新機軸を盛り込んだ機体を開発した。試作初号機XF8U-1は1955年3月25日初飛行および超音速飛行に成功し高性能を示したため、海軍に採用されることとなった。直ちに量産が開始され、生産型F8U-1は1955年9月に初飛行している。艦上機としては世界初の超音速戦闘機である。

F-8は当時の陸上機をも凌ぐ高性能を誇り、また極めて信頼性が高く、扱いやすかった。例えば同じエンジンを搭載する空軍のF-100戦闘機が最高速度マッハ1.3だったのに対し、本機はマッハ1.7に達した。これはインテイクの上から前方に突き出したレーダードームが、偶然にもショックコーンの役目を果たし、エンジンの性能を最大限に引き出した事による。

特徴としては極めて視界に優れている事が挙げられる。コックピットは視界を確保するため胴体の先端に配置された。インテイクも機首下面にあり視界を妨げないようにしている。また離着艦の際の機首上げ角を抑えるため、前桁に取り付けられた油圧アクチュエータと後桁のピボットによって、高翼配置の主翼の仰角を動かす唯一のシステムを持ち、運用時の安全性を大幅に向上させた。これは視界不良に悩まされたチャンスボート社の前作F7Uカットラスの反省があったためだが、むしろ過剰装備だったと評されることもある(またカットラスは飛行性能を追求し新機軸を盛り込み過ぎ離着艦性能が極端に悪く、前述の視界の悪さとあいまって着艦時の事故が多発し、同様の問題を抱えた僚機F3Hディーモンと共に「未亡人製造機」と称された)。なお後に本機を母体に開発された亜音速攻撃機A-7 コルセアIIでは、主翼ハードポイント(重量強化点、パイロンを取り付けられる場所)追加のため可変仰角装置は省かれている。

1957年から部隊配備が開始され1965年までに各形式合わせて1,259機生産された。のちにアメリカ海軍の空母機動部隊の運用方針が変化し、艦載戦闘機にも多用途性が求められるようになり、同時期に採用されたF11F タイガーはこの要求に対応出来ずに短命に終わってしまったのとは対照的に、F-8は一定の汎用性も兼ね備えていたため大量に生産された。

カリフォルニア州サンタローザのパシフィックコースト航空博物館で屋外展示されているF-8。アクチュエータで主翼を僅かに上げている点に注目部隊配備は1958年3月から開始された。その後、F-8はベトナム戦争に投入された。アメリカ海軍は他に最新のF-4 ファントムIIを投入していたが、ミサイル万能論の影響で機関砲を搭載せず空対空ミサイルのみに頼り、爆撃能力を重視し機動性をある程度犠牲にしていた。こうした中、軽快な運動性と4丁の20mm機関砲を搭載していたF-8は「最後のガンファイター」と呼ばれ、多数のMiG-17等の敵機を撃墜し、一時期はF-4の撃墜数を上回ったこともあった。そのことから「ミグ・マスター」とも呼ばれた。ただし、機銃のみによる撃墜は無かった(2機をミサイル、ロケット弾との併用で撃墜。なお、F-8に搭載されたコルトMk.12は信頼性に乏しかったともされる)。

ベトナム戦争全体を通し、アメリカ空海軍海兵隊機種で最高のキルレシオ(撃墜対被撃墜比率)、8:1を持つ。また撃墜数はF‐4の半分(18機)であったものの、作戦および空中戦への延べ参加機数は遥かに少なかったことを勘案すると、大変効果的に敵戦闘機を抑えたと見ることができる。

ただし本機がF-4と共に1960年代のアメリカ海軍の主力たり得たのは、本機が、第二次世界大戦当時から使い続けられていたエセックス級航空母艦において運用可能(ファントムは運用不可能)であったからである。ベトナム戦争が無く、エセックス級空母がもっと早くに退役していたならば、本機も早々に退役していたものと想像される。

ベトナム戦争の終結後、エセックス級空母の退役により戦闘機型のF-8は1976年までに現役を退いたが、偵察型のRF-8Gについては、RA-5Cの退役?F-14偵察兼務型の配備までのつなぎ役としてその後も長期間配備され、アメリカ海軍から最後の機体が退役したのは1987年であった。最後までF-8を第一線に配備し使用していたフランス海軍のクレマンソー級航空母艦に搭載されていた機体も、2000年に後継機のラファールと交代する形で退役した。
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外国での採用は他に、フィリピン空軍がアメリカ海軍からの退役した機体を修繕して用いていた例がある。こちらは1991年のピナトゥボ山噴火によりダメージを受け、廃棄された。

スペック
全幅: 10.72 m
全長: 16.61 m
総重量: 12,700 - 15,400 kg
最大速度: マッハ 1.8
航続距離: 2,260 km
エンジン: P&W J57エンジン × 1
武装
固定武装: 20mm機銃(コルトMk.12) × 4
ミサイル
AIM-9 サイドワインダー × 4
AGM-12 ブルパップ × 2
ロケット弾: ズーニー・ロケット弾 × 8
爆弾: 2,000 kg(翼下2ヶ所のハードポイント)
250 lb (110 kg)爆弾 × 12 又は
1,000 lb (450 kg)爆弾 × 4 又は
2,000 lb (900 kg)爆弾 × 2

派生型
XF8U-1 - 試作機。新呼称XF-8A。
F-8A - 初期生産型。旧呼称F8U-1。311機生産。昼間戦闘機型。
F-8B - 旧呼称F8U-1E。130機生産。APS-67レーダーを装備。
F-8C - 旧呼称F8U-2。187機生産。エンジンをJ57-P-16に換装。ベントラルフィンの追加。
RF-8A - 旧呼称F8U-1P。非武装。機首に5基のカメラ搭載。144機製造。
DF-8A - 旧呼称F8U-1D。レギュレス潜水艦発射巡航ミサイルの空中誘導母機。20機改装。
F-8D - 旧呼称F8U-2N。エンジンをJ57-P-20に換装。FCSをAWG-4に更新、AIM-9C SARHMの運用能力獲得。152機生産。
F-8E - 旧呼称F8U-2NE。レーダー換装、翼下にハードポイントの追加など。
F-8E(FN) - フランス海軍向け。42機製造。'90年代に電子機器を更新。
F8U-3 - 全天候戦闘機化計画に基づき、J75-P-6に換装、折畳式ベントラルフィンの追加など、胴体をほぼ全面的に再設計した発展型。5機のみ完成。より大型のF4Hとの競争試作に敗れ米海軍には不採用になったが、NASAの高速試験機として運用された。実際には表皮温度制限から実現しなかったものの、低抵抗と高推力重量比によってマッハ2.9級の速力を出すポテンシャルを有していた。[1]
RF-8G - RF-8Aよりの改装。構造強化など。73機改改装。
F-8H - F-8Dよりの改装。構造強化など。89機改装。フィリピンに一部輸出(F-8Pと呼称されることも)。
F-8J - F-8Eよりの改装。構造強化など。F‐8E(FN)の経験を還元。136機改装。
F-8K - F-8Cよりの改装。構造強化など。
F-8L - F-8Bよりの改装。構造強化など。
V-1000 - F-8の大幅な改良型で、J79エンジン搭載。1970年のアメリカ空軍による海外供与機の審査に応募した機体。性能面では高く評価されたが、コストの面でノースロップ案のF-5E/Fに敗れた。